腐りかけの海

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腐りかけの海

全て実費で大学へ通う お水苦学生の日々

ぼくわた夢との向き合い方<2>~夢is現実つまり金~

タイトルをプラズマクラスタ的(シャープ)に略しつつ、前回の続きです。

今回は余り笑いもなく、退屈かもしれませんが宜しくお願い致します。
コメントを頂けて大変嬉しかったです!ありがとうございます。 

 

高3の冬と「金」

夏期講習が終わり本入校となりました。
その予備校はオールシーズン料金一律、ではなく時期ごとに受講・支払いをする形だったんですね(予備校って普通そうなのかな?)。さあ通うぞとなったときに、長期休暇以外の授業料がとても高いことを知りました。

一ヶ月7万円だったかな。自立した今となってはこれがどれだけ大きい金額が身に染みてわかります。うちの家賃よりたけーもん。世知辛すぎます!
当時住んでいた家の人に申し出ると、メチャメチャ嫌がられたんですが(当然です)、それを理由に実家から連れ出してしまった手前か、一応その費用を出してくれることになりました。一番コマ数の少ない安いプランでしたが、私は感謝して先ほど書いた通りブラック社畜の如く予備校へ通いました。

 

秋が終わり、冬が来ました。
最初はやる気満々だった私ですが、通学の3時間と授業の手ごたえのなさに疲弊したのかもしれません。知らない世界に飛び込んで、がむしゃらに目の前に出された課題をこなしていたもので、自分の疲れや精神状態を把握することもできず、
時々、予備校へ行くのが辛くなって、逆方向の電車に乗って実家のある地元へ帰ってしまったこともありました。

どうせ今日もみんなより遅刻して(学校が終わってからだと最低30分は遅れてしまう)
みんなより遅くスタートして、
みんなより下手で、
みんなよりボロクソ言われて、
みんなより遠い家に帰って、
みんなより遅く寝るんだ。

そういう劣等感は日に日に増してゆきます。
下手だから本来はみんなより授業を多く受けなければいけないのに、お金の問題ともぶつかってしまった。うーーん、書いててマジでしんどいな~~。今回の記事文句しか言えてないぞ。でも本当のことでした。
私が今の考えに至るまでのプロセスとして、説得力があるかどうかの判断材料として読んで頂けたらなあと思います。


続けていて何になるのか。金もないのに。先が見えなくて、いつも泣きそうでした。

この、「お金の問題」になりますが、私の最大のネックであり、振り返ってみれば最大の「逃げ道」となってしまった部分です
散々「苦学生」と銘打ってきましたが、この時既に私には資源が一切ありませんでした。
でも、これには全く気付いていなかった。高校生になるまで自分の家にはお金がいくらでもあると思っていました。ケチだから、私のことが嫌いだから出してくれないんだ。そう思い込んでいる部分が大きかったように思います。
なぜそういう考えになるのか、またテメエの家の経済事情もわからなかったのか、ということも話すと長くなるので、別に記事を書きたいです。
一つだけ弁明させてもらうとするなら、実家は小さいながらも会社を経営していました。その事実だけが、具体的な数字を知らない高校生の私を勘違いさせる大きな要因になっていたのです。

 

とにかく、そんな実家を出て他人の家に住んでいた私です。
他人の家でしたが、実家とは勘当状態にあり、教育費用はその「他人」様が出してくれることになっていました。ある日予備校の講師から、大学に受かったとして大学の費用はどうするのかということを尋ねられました。
「専門的な大学だから、普通大の2・3倍はかかるよ。家の人にもう伝えてあるの?」
年間200万という学費に加え、教材料はそこから出るわけではない。一人暮らしをするお金だっている。

私の頭からはそれがスッポリ抜け落ちていた。
「夢」と戦うには情熱だけではなく、現実的な計算が必要でした。

~当時の私の頭の中~
1.家庭の経済状況?わからん。
2.進学費用?わからん。
3.予備校、辛い。
4.でも夢、叶えたい。

一般的な家庭は、いくらくらい子どもに投資が可能なのだろう。
わからない。でも、実家と「他人」様の経済状況はイコールのはずだ。
そう思った私は、その晩「他人」様に学費のことを相談しました。
授業料について相談したの日の再来です。

「これくらいかかるらしいんだけど。大丈夫かな」
後ろめたいし、また怒られるのだろうし、反対されるんだろうな。
わかっていながらも、プレゼンという言葉を知らない私は粗雑な説明を付けておそるおそる尋ねました。

「はあ?!そんなにかかるの?!聞いてないんだけど!!そんな金あるわけないでしょ!!バカじゃないの!どうしても行きたいなら自分で稼いで行きな!!」

大体こんなことをものすごい剣幕で言われたような気がします。テンプレのような台詞です。
私は1千万近くを自分で用意するという事実が感覚としてよくわからなかったけども、「じゃあそうする」と返しました。予想通りの結果。この辺りのやりとりも今思い返せばかなりのディスコミュニュケーションでしたね。
諦め同然で唐突にとんでもない金額の提案をしてくる子どもの無神経さに腹が立ってもおかしくないです。また、ただでさえ一ヶ月7万かけているのに愛着のない人間にこれ以上?とも思ったでしょう。私に冷静に対応できなかった彼女の大人気ない余裕のなさも、今なら理解できます。

私の育った環境には、「説得」や「納得」というものは存在していなかったのです。「許可」か「拒否」しかありませんでした。

普通、お金がなくとも話し合い次第では、お金のない中で両親や家族と子どもの双方が納得できる教育の方針を決めていくことは可能だと思うのです。私のように学費を払いながら自活することになったとしても、ある程度家庭から援助してもらえることもある…というかそれが大半の苦学生の有り様なのではないでしょうか。

家族の応援や温かみがあってこそ踏ん張れるところも大きいですよね。

私も家族とのコミュニュケーション、ここをもっと円滑にできれば良かったのですが、家庭崩壊ドン決まりの上、空中分解し派閥化していたMy一族は唯一の未成年者である私の融通の利かなさを厄介に思っていましたし、余ったお金を気が向けば私に回してくれる程度の仲でした。その後散々ぱらの個人攻撃もされましたが、諸方面に顔が立たなくなる諸々の手前もあるのか、予備校を辞めろとは言われませんでした。

冬も12月、1月と過ぎ、とうとう2月の受験が近づいてきました。
この辺りで、夢を叶えたとしても採算が取れるのかという考えが自分の中に浮かんでくるようになります。「夢」を阻害する「金」にまつわるエトセトラは、私の心の中でどんどん膨らんでいきました。

「夢」と「現実」の折り合いは、言い換えると「夢」と「金」の折り合いになることがしばしばありますよね。
現実の中の選択肢を組み合わせ、可能な範囲で模索することが「道」にしかなりません。
しかし、どんなにひんまがった小石だらけの歪な獣道だとしても、「道」はつくれるということを、今なら自信を持っていえるのですが。

 

高3の2月と受験直前

節分の日、予備校で合格祈願も兼ねて恵方巻が配られました。
その頃夜ご飯だけはしっかり食べさせてもらえていましたが、それ以外は満足に食べていなく、お小遣いもほとんどなく、いつも空腹だったので、やたらその恵方巻はおいしかったです。思い出すと高3の記憶はほぼ灰色がかっていますが、恵方巻だけはカラフルです(なんかかわいそう)。

 

講師の人には、受験する大学について当初中堅くらいを狙う旨を伝えてありました。
しかし、キャリアを考えれば高レベルのところに行くべきだと熱弁され、
中堅ではなくなぜか私大ナンバーワンの大学を受けることになってしまいました。
どうせ落ちるとわかっていて、もう1年予備校に通う前提の受験です。

あらかじめいうと、私の受験は、最早ここで既に試合終了していました。
通える保証のない予備校に通おうと、どこからどこまでが本気かわからない講師の営業トークに投げやりに納得し、
わけもわからず言われたままの大学を受験することになった。
当時の私の頭の中は、とにかく早く受験を終わらせたい、この日々から逃げたい
それだけしかありませんでした。

何よりも大好きだった「夢」がどんどんボロボロになり、
その手段を嫌いになりかけていたことが一番の苦痛だったかもしれません。
どんなに辛いことがあっても、それさえあれば全て忘れられた。
なのにそれが今は一番辛いって、そんなバカなことあるか。
どんどん消えていってしまってるような気がする。夢もお金も「これが好きだ」という気持ちも全部。
冬に入ってからは、続けていた趣味を一切しなくなっていました。
それまで現実逃避だった手段が、現実を私に突きつけてくるように変化していたからです。
夢や趣味と向き合うとは、そういう変化について深く考えることですが、もうその余裕はありませんでした。


そのすぐあと、私は胃腸炎にかかり大変な高熱を出しました。
「他人」様の家庭は私を含めて3人で、父と母のような人がいましたが、昼は共働きで家にいなかったので療養のために勘当していた実家に戻ることとなりました。

ろくな話合いもせず夜逃げのように荷物をまとめて飛び出し、最後は怒った祖父が私の荷物を道路に投げ捨てていて、それを遠ざかる車の中から見ている、そんな場面しか覚えていませんでした。
しかし祖父に電話すると、驚くほど快く出迎えてくれ、手厚く看病してくれました。
父と母のような人は私との生活に限界を感じていたのか、私を簡単に手放しました。

 

2月中盤、熱を出しながら何をしていたかというと、
懐かしい自分の部屋で、ひたすら趣味の「絵」を描いていました
なんだかぼかしながら書いてきましたが、急にストレートに伝えたくなったので正直に書きます(なんだこのクソブロガー)。
私の趣味は絵で、美術予備校に通い、美術大学のデザイン科を目指していたのでした。

予備校で使っている鉛筆と筆で、誰にも指図されず、誰にも評価されない、課題じゃない絵をひたすら描いていました。
そのうち体はすぐよくなり、自分は絵の楽しみを思い出していました。あと、ずいぶん長らく描いてなかった趣味の絵が少し上手になっていたのはかなり嬉しかったです。
「私にとっての絵が帰ってきた」。久しぶりに大好きな人に会えた気持ちでした。

 

その後、残りの冬期講習に通ううち、私は半年間通ってはじめての「上」評価を頂きました。
これは一番良い評価であり、今まで羨ましがっていた「彼ら」のステージです。
その日の上評価はたった3人で、配色・構図共に一番褒めてもらいました。
講師も「ようやく実ってきたな」くらいの感じで言ってくれて、あんた誰?と思ったものです(それくらいいつもは辛口)。

上評価を取れた。絵が楽しかった。辛かった学校も受験ももうすぐ終わる。
これだけで、私の気持ちは晴れ晴れとしていて、全てから逃げ切った気分でいました。

受験は、2月の後半でした。天気の良い、とても寒い日です。前日は一睡もできず、慣れない満員電車でデカイ画材を持っているのはかなり恥ずかしかったし、なんかのっけからグロッキーだったなあ。会場へ向かうバスの中ではUAの『歪んだ太陽』を聴きながら、カンカン照りの太陽を見ていました。

会場で、偶然前の席が予備校の同期だったことに笑いながらも、実技の結果はボロボロでした。
何も良くできたとは思えませんでした。別日に行ったセンター試験や、筆記試験の方が良くできていました。

 

当然結果は不合格。

これで、進路の決まらぬまま私は高校を卒業しました。
さっぱり落ちて、さっぱりニート、さっぱり浪人生。こうして私は「夢」から「現実」「金」を理由に、足早に逃げたつもりでいました。

何も考えたくなくて、なんだか将来の心配もしていなかったように思います。

そして卒業式の数日後、東日本大震災があり、私の地元は被災地となりました。
死者は少なく、また実家は無事に津波にあわず済んだものの、小さな街は海の泥とガレキでいっぱいになってしまいます。
助け合うことで精一杯で、毎日風呂にも入れず、でもみんなで「こうなっちまったらしょうがない」と不安を取り払うように笑いながら、半分ヤケクソで知人友人の家の片付けやボランティア作業に励んでいました。

 

3月後半、その流れで予備校に電話をし一旦辞めることを伝え、画材を取りに行き、講師の先生方に挨拶して帰りました。被災地で過ごしていることこそ心配されたものの、引き止められはしませんでした。いつもの教室でいつものようにデッサンしている生徒たちを見て、これでばいばいだ、と思いました。

変わり果てたけれどもこの街で、元気な友人たちと共に過ごしていこう。
そんな気持ちを持ちながら車の免許をさっさと取り、「大学費用を稼ぐ」名目で給料の高いバイトにつきました。
金と戦わなければいけないことを身に染みてわかっていたのもありましたが、「勉強」「練習」「鍛錬」から離れたく感じていたのです。
バイトは体力的に大変だったけれども苦ではなく、1ヶ月に25万ほどの収入を得て、
受験の頃よりは元気で、精力的で、生き生きとした毎日を送っていました。

 

この後のことは省略しますが、色々経て今、都内で自活しながら大学へ通っているところです。「夢」とまともに戦っていたのは高3の夏から冬まででしたので、そこだけ詳しく書いてみました。

 

つ、つまんねー!!ユーモアセンスのない記事になってしまいすみません。
次回総括です!長くなっております…。